-介護の今と昔- TIMELEAP
介護福祉士について(後半)
この企画は、介護のあり方の変化に着眼し、昔の介護を振り返り、今の介護との違いを見直そうとするコーナーです。解説は、「介護福祉経営士」情報誌 Sunにおいて「タイムトラベル~ケアの過去・現在・未来を探る旅」を執筆されている、神奈川県介護福祉士会所属の井口健一郎氏(小田原福祉会潤生園施設長)と風晴賢治氏(日本介護福祉士会前常任理事)が対話形式で介護の昨今について語ります。
第7回は、「介護福祉士について」をテーマに振り返ってみましょう。今回は前後編の後編となります。
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井口 健一郎
KENICHIRO IGUCHI社会福祉法人 小田原福祉会 理事
特別養護老人ホーム 潤生園 施設長
神奈川県介護福祉士会所属
創価大学大学院卒業後、小学校教員を経て
2009年社会福祉法人小田原福祉会に入職
神奈川県認知症ケア専門士会理事
桜美林大学 和泉短期大学 非常勤講師 -
風晴 賢治
KENJI KAZEHARU社会福祉法人 徳誠福祉会
障害者支援施設 徳誠園 施設長
日本介護福祉士会前常任理事
青森県介護福祉士会理事(前会長)
立正大学卒業後、身体障害者療護施設に生活指導員として入職
高齢者施設、地域包括支援センターセンター長を経て現在に至る。
青森大学非常勤講師
青森県社会福祉協議会代議員
介護福祉士について(後半)
介護福祉士国家試験について
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井口
- 実技試験ですよね。昔は、二次試験では実際にモデルさんに介護技術を実施するという課題でした。実は僕も実技で落ちています。緊張しすぎて不合格になりました。そう考えると、うちの法人の技能実習生もそうですが、外国人の技能実習評価試験も実技試験があります。受験する外国人のみなさんも実技を多くみられるので、ものすごい緊張ですよね。うちの外国人の職員たちも受験時、口を揃えて「一睡もできませんでした」と言っていました。(笑)
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風晴
- みんな同じ条件だとはわかっていても、いつもと違う場所で、初めて会ったモデル役の人を相手に、しかも試験監督員を前に実技を行うのは思った以上に緊張しましたね。翌年は実技試験のみを受けに仙台へ行きました。記憶では、試験当日が国政選挙と重なっていて、実技試験では「利用者への声がけは大事だ」ということばかりが頭にあり、試験で高齢者役のモデルの方に「今日は選挙の日ですが、投票に行きましたか?」と聞いてしまいました。モデルさんはそれを聞いて、あっけにとられて、そのあと笑われてしまいました。今考えると、なんて馬鹿な質問をしたんだと脂汗が出ます。ただ、モデル役の人に笑ってもらえたことで、逆にそれで開き直れたせいか、運よく2回目の受験で合格でき、介護福祉士となりました。
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井口
- 無事に受かってよかったですね。さすがです!意表をついた声かけ!声掛けは大切ですが、そのようなコミュニケーションは誰も思い浮かびませんね。
青森県介護福祉士会について
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風晴
- そういえば、青森県介護福祉士会は全国でも3番目と早い、1990年12月1日に組織化されたんです。今年(2025年)で設立35年となります。前回もお話ししましたが、日本介護福祉士会は1994年の設立ですので、4年ほど早いことになります。青森県は地図を見ていただけるとわかりますが、日本海側の津軽と太平洋側の南部までが一つの県となっており、それぞれ異なる気候、風土、文化、方言等があります。昔はあからさまにライバル心をあおるようなことがありましたね。そんな中で、介護福祉士会を最初に立ち上げた人が津軽の弘前市の方だったので、県南(南部)の人は入会するのに最初少し抵抗があったのか、発足当時の入会者は津軽一帯の人に偏っていたと聞いています。
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井口
- 津軽!実は、昨年、津軽地区老人福祉協会の皆様にお招きいただいて、講演をしました。皆様、とても温かい方々で、勉強熱心でした。僕と元々つながりがあったわけではなく、ネットで探して「この先生だ!」と思ってお声をかけて頂いたとのことでとてもうれしかったです。
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風晴
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そうだったんですね。講演もですが、青森県を楽しんでいただけたのであれば良かったです。
実は、青森県介護福祉士会ができた時点では、私はまだ入会していませんでした。でも、青森県介護福祉士会が設立された数年後、同じ障がい者支援の別施設にいた戸来睦夫さん(後の日本介護福祉士会副会長)が県の二代目会長になり、戸来さんと旧知の仲である私も会に誘われ入会しました。その時はまだ会自体が目先のことをこなすのが精いっぱいで、研修も手弁当、徹夜で資料を作ったり、袋詰めの準備をしたりと、今から思うと若かったから出来たのだと思います。そのような忙しい中では、全国の動向や日本介護福祉士会の状況等考える余裕はなかなかありませんでしたね。
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井口
- とても大切なことなので、風化しないように、そういった先輩たちの草創の汗はしっかり語り継いでいかないといけないですね。
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風晴
- そうですね。その当時は、介護福祉士が「名称独占」か「業務独占」かの議論が白熱していましたね。そして“業務独占でなければ資格の意味がない”という声がかなりありました。また、介護福祉士の資格がなくても介護や福祉の仕事に就けるということもあり、少し残念なことに設立当初から介護福祉士会への入会率が高くなかったのは否めませんでしたね。「介護福祉士だから会に入会する!」という意識が薄かったのかもしれません。そんな中、私が青森県の会長になったのは、前会長(三代目)が任期半年で辞任することになり、その穴埋めで残りの任期1年半だけやってほしいと言われたことに始まります。うまくごまかされて?その後20年余りも会長職をやる羽目になりました。(笑)ようやく、2022年5月の総会で現会長の村岡真由美氏にバトンタッチしました。
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井口
- 1年半が20年!それだけの任期をこなされたのも風晴さんのお人柄と人徳ですね。まさに、青森県の介護福祉士会を支えられた大功労者ですね!
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風晴
- そんなことはありません。自分の力量やリーダーシップが他県の会長さんよりないのは自覚していて、優柔不断の権化だと思っていました。でも、こんな頼りない私でも長く会長職を続けられたのは、会員、役員、事務局スタッフに支えてもらったおかげです。そして、そんな助けてくれた皆のことを常に思いやり、感謝を表してきたつもりです。
1990年代の介護福祉士
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風晴
- 全国で介護福祉士会が設立されはじめた頃から、介護福祉士の養成校が地元でも次々に開校し、青森市内だけでも多い時には福祉系高校から4年制大学まで5校あり、介護を学ぶ学生もいっぱいいたと記憶しています。
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井口
- 当時は介護福祉士という新しい資格に魅力を感じ、若者たちがこぞって養成校に進学したんですね!
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風晴
- そうなんです。もちろん今もですが、介護福祉士という仕事への期待が大きい時代でしたね。介護福祉士という資格が誕生し、介護福祉士会ができてからは養成校の入学式や卒業式への参加招待だけでなく、行政等からも会議や様々な委員会への参画要請が相次ぎ、国家資格に対する社会的な信頼を感じましたね。そして、介護福祉士会で企画した研修や国家試験の受験対策講座はどれも盛況で、会員も設立当初に比べると徐々にですが増えていき、今とは比較にならないくらい活況を呈していました。でも、そうなると、段々と事務量が増えて、事務局をどうするかという課題が出てきました。その頃は青森県介護福祉士会と青森県社会福祉士会の事務局がたまたま同じ施設だったのですが、頻回な電話対応などの会としてのさすがに業務量のが増加や電話が頻回にかかってきたりとし、施設にもご迷惑をかける状況にありました。そこで、介護福祉士会と社会福祉士会で相談し、青森市郊外の障がい者総合センターの小さな空き部屋一室を借り、「両会合同で専任の事務局員を雇えばいいのでは」ということになり、公募で事務局員1人を雇い、そこから新たなスタートとなりました。
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井口
- 組織体制も整ったわけですね。
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風晴
- はい。専任の事務局員がいることで、飛躍的に事務作業や連絡が早くなり、両会の運営が軌道に乗っていきました。今は事務局の場所も変わり、同じフロアーですが、介護福祉士会と社会福祉士会でそれぞれ複数の事務局員を抱えています。
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井口
- 僕も、全国、様々な都道府県介護福祉士会でお招き頂き、講演をしています。その際、事務局の方々が様々な対応をしてくださるのですが、どなたもお人柄がよく、スムーズに進めてくださいます。お昼ご飯時には、色々な介護福祉士会の活動の取り組みを嬉しそうにお話しくださることが多いので、それをお聞きするのも都道府県で講演する時の楽しみです。会を愛している事務局員が多いのは介護福祉士会の一つの特徴だと思います。また、あまり表舞台に立つことはありませんが、そういった下支えしてくださる方々に感謝とともに敬意を表します。
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風晴
- 都道府県介護福祉士会の事務局員や役員が一番会員の身近にいる存在なので、会員の思いや、どういった取り組みが必要とされているのかいつも考えています。そういえば、毎年、介護福祉士の国家試験の筆記試験会場に行っては、会場の門の前で受験の応援も兼ねて介護福祉士会の紹介パンフレットと入会案内を受験者に手渡していました。何回目かの時に、なにか「過激なビラ」を配っている不審な奴らと疑われてしまい、職務質問されたという苦い思い出もあります。あくまでも、配っていたのは介護福祉士会のパンフレットなどで、おかしなものではなかったのですが…
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井口
- 過激なビラ(笑)そういった先輩たちの手弁当での熱い情熱があって、青森県介護福祉士会の礎が築かれていったんですね。
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風晴
- 国家試験頑張ってという思いと、合格して介護福祉士になったら介護福祉士会に入ってほしいなという思いだったんですが、今でも「どうしてかな?」と不思議に思います。
2000年代の介護福祉士
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風晴
- 2000年ごろ、介護保険制度が始まるということで、地元青森のローカルテレビ局で当時平日の朝の時間帯に、90分の生放送の情報番組の中で、制度や介護について県民に分かりやすく説明してほしいと、当時県の介護福祉士会会長だった私にお声が掛かったことがありました。月1~2回程度の出演で1回5分ほどのコーナーだったのですが、足掛け3年ほど出させていただきましたね。生番組ということで、緊張感や臨場感が半端ではなかったのですが、テレビの裏側を垣間見たり、他のゲストの方やMCの方々との掛け合いは、とても楽しい貴重な時間でした。生放送なので、”放送事故“には注意しましたが、時にはハプニングもあり、今ではそれもいい思い出です。
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井口
- すごい!毎月コーナーを持っているなんてなかなかないですね!生放送は緊張しますよね。
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風晴
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そうなんです。もともと緊張しやすい性格なので、どうなるかと思いましたが、楽しく出演させていただきました。
そして、私が青森県介護福祉士会の会長在任中で一番強く印象に残っているのは、なんといっても2011年に青森県で全国大会を開催したことですね。この年は3月11日に東日本大震災があり、混沌とした中での準備・開催でした。
開催予定は11月でしたが、絶対全国大会はできないと発災直後は確信しました。もちろん、日本介護福祉士会も機能が一時ストップし、全国大会の準備どころではありませんでした。全国大会を開催する、しないの結論が先送りのまま、6月に入った頃にようやく日本介護福祉士会との話し合いが始まり、最終的には「東北の元気と頑張っている姿を全国の会員の皆さまにお見せしよう」ということで、開催が正式に決定しました。
それからはもうバタバタの中での準備でしたが、逆に会員たちの結束が強まり、ハイテンションのまま、本番に向かうことができました。東北各県には地元の福祉作業所の作品を提供してもらいました。こちらは販売することで収益にもなり、また被災しながらも頑張っている姿を感じてもらえる取り組みでした。
そして、青森県介護福祉士会と親交のあった「ヘルプマン!」の作者である、くさか里樹先生にイメージポスターや大会冊子に、東北へのエールを兼ねて無料で原画を提供してもらいました。
大会当日、開会式では青森県知事含め各団体等から多数の御来賓を招きましたが、あらかじめ予定していた時刻に来ない方もおられたり…。移動の順番や座席が少しズレたことで、ある来賓が激怒して帰ってしまうというハプニングもありました。その時は急いで玄関までお見送りに行きましたが、冷や汗ものでした。
懇親会では、2日目の分科会のゲストにも打ち合わせも兼ねて出席してもらうはずでしたが、時間になっても来ません。連絡もつかず、懇親会の舞台裏は大騒ぎ。結局、用意していたアトラクション等は殆ど見ることができず、ハラハラした思い出があります。お酒は好きな方ですが、気が張っていたせいか、この懇親会で初めて“酔えないお酒”があることを知りました。
そんな状況でも、結果、全国からスタッフ含め900人近くの人に来ていただき、被災地の現状や東北魂を感じてもらえたと思っています。手前味噌ですが、本当に素晴らしい全国大会になりました。あれから14年の歳月が経ちますが、大会スタッフや東北各県の介護福祉士会の役員や会員、そして日本介護福祉士会関係者の皆さんには本当にご苦労を掛け、お世話になりました。感謝しかありません。この場をお借りして改めてお礼申し上げます。
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井口
- 東北が一番大変な時に、全国大会を行い、多くの感動を全国にお伝えいただいた大切な会でしたね。風晴さんのお話をお聞きしながら、それぞれの都道府県介護福祉士会でも色々なご努力があり、様々な物語があり、今があるということで、歴史研究者としては、とても興味を持ちました。各都道府県でも、まだまだ語られていないたくさんの物語がありますね。
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風晴
- 都道府県介護福祉士会は、設立された年もそれぞれ異なり、成り立ちも違います。47都道府県の介護福祉士会と日本介護福祉士会のそれぞれに誕生の物語と設立後の運営に関する様々な物語があります。
これからの介護福祉士
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風晴
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最後に、全国高校生介護技術コンテストの話題に触れます。全国福祉高等学校長会主催のという福祉系の科がある高校で競う全国大会があるんですがで、全国の予選を勝ち抜いた各地区代表校12校が、ガチで行う言わば“介護の甲子園”版です。2011年から始まり、一昨年(2022年)その大会が青森であり、私は審査委員長で参加しました。
予想以上にレベルが高く、チェック項目も細かく分類され、生徒だけではなく教師も関係者も真剣そのもの。青森大会は九州代表の佐賀県立嬉野高校が優勝し、九州地区のレベルの高さが際立ちました。この生徒たちがこれからの介護福祉士の一躍を担っていくのかと思うと頼もしく感じましたね。
そして「多職種連携」とよく言われますが、実際に医療・保健の各分野の専門職の面々と研修や会議を行いましたが、福祉職以外の方は福祉の制度や利用者(患者)側からの視点にあまり精通していないと感じることがありました。やはり”餅は餅屋“で、福祉に関しては私たち介護福祉士がもっと自信を持って発信していいんだという意識を強く持ちました。
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井口
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若者たちが輝いている姿、素敵ですね。現在も様々な場所で介護技術のコンテストもが行われていますね。技能五輪においても2025年のエキシビションを経て、2026年から介護職種が正式種目になるそうですね。
※注 技能五輪は、若い技術者たち(原則23歳以下)が技能を競い合う、いわば「技能のオリンピック」である。日本国内の大会と、世界規模の大会がある。
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風晴
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技能五輪の介護職種の競技運営には日本介護福祉士会も関わる予定ですね。若い人たちの介護技術の向上やモチベーションのアップも期待されているのと、社会全体にもっと介護という仕事へ興味を持ってもらい、知ってもらう機会になればと思います。
1989年に介護福祉士という資格が誕生し30年以上たちますが、最近、ようやく介護福祉士という国家資格がメディアを通して国民の耳に入ることが多くなったように思います。しかし、介護福祉士の中身については余り知ってもらえていないなぁという印象もありますね。
ただ、介護福祉士自身も、時には介護福祉士取得を志した時の原点に立ち返ったり、介護福祉士という資格を取って終わりではなく、もっとスキルアップして介護の専門性を極めるぞ!というくらいの気持ちを持ってほしいなとも思っています。そして、介護という仕事の本質ややりがいなどを発信してほしいですね。もちろん、介護福祉士会も発信し続けます!
介護を担う人材の不足や介護職として求められるケアの多様化にどう応答えるのかなど現場の課題はたくさんありますが、今や福祉施設では、介護福祉士が1人もいないところはほぼないのではと思います。現場での努力もしつつ、個の力では難しい課題も、まとまった声があれば行政や社会を動かす原動力になると信じています。現場で頑張っている仲間とともに、介護福祉士会という職能団体としての“本気度”を、数ある他団体に負けないように、外に向けて発信していくことが、今、大切ではないでしょうか。
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井口
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先日、日本生活支援学会において、介護福祉学の礎を築かれた黒澤貞夫先生と直接お目にかかりました。黒澤先生は、恐縮なのですが、いつも私を褒めてくださり、「井口さんのような若者にもっと活躍してもらわなければいけない」と激励してくださいますが、。黒澤先生のお話を拝聴し、介護は、単なる技術論ではなく、そこには、深く、そして温かい人間理解が根底に流れているということ。介護を『人間科学』として捉え、利用者一人ひとりの尊厳を何よりも大切にし、日々の暮らしを支え、身体的なケアだけではなく、心の支え、社会との繋がり。、それら全てを含めて、その人らしい生活を支えることであるということを改めて教わりました。
今年は、2025年、団塊の世代の方々が全員後期高齢者になる年です。そして、我が国は、2040年をネクストゴールと設定し、動いています。今後、益々高齢化が進み、私たち介護福祉士たちの役割は益々重要度が増します。私たち介護福祉士及び職能団体である介護福祉士会は新たな福祉を拓くためにさらに邁進していかなくてはいけませんね!
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風晴
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本当にそうですね。介護福祉士という資格が生まれる前から、介護職はありました。でも、国家資格である介護福祉士が生まれたのは、それだけ介護には専門性がある職だということのあらわれだと思います。
日本介護福祉士会の前会長の石本淳也氏が「介護福祉士の未来は介護福祉士自身が切り開く」と言いましたが、この言葉は介護福祉士だけの未来を思った言葉ではないと思います。介護福祉士や介護の現場で働いている人、介護を必要とする人、そして、今は介護を必要としていないけれども、いつか介護を必要とする日がくるかもしれない人、みんなにとって明るい未来となるためにも、介護福祉士が自ら動かないといけないという思いのつまった言葉だと思っています。
今、介護福祉士とは何かを考え、新たな福祉の在り方を多くの人と一緒に考えていきたいですね。
(お知らせ)
2022年から始まりました「タイムリープ~介護の今と昔~」ですが、今回が最終回となります。長らくお読みいただきありがとうございました。(事務局)
風晴